宮崎県の巨樹分布と人との関わり、その変容

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 これは、2006年1月28日に宮崎市で開催された第18回巨木を語ろう全国フォーラムにおいて、当サイトの管理人が「宮崎県の巨樹分布と人との関わり、その変容」と題して、スライド映写によって行った報告のほぼ全文です。
 報告の終盤には、野尻町立栗須小学校の1年生、3年生、そして5年生の代表3名が発表を手伝ってくれました。その内容も抜粋して掲載しています。


はじめに 宮崎県は県土の76パーセントが森林で、そのうち61パーセントが人工林です。当県の人工造林は、豊臣秀吉による九州平定直後の1620年代から県南部の日南市飫肥(おび)を中心に始められていて、飫肥林業として知られる歴史ある林業地帯を形成しました。
 まず、タイトルバックに使っている写真からご覧いただきましょう(板谷@)。県南部、北郷町の板谷国有林です。私は、若いスギが天を挿すように整然と並んでいる、こんな光景が嫌いではありません。特に、右下にスダジイが一本あるという風景は、単一な杉林に変化が生まれて絵になります。ところで、このスダジイは、単に絵になるためにここにあるわけでは決してありません。もともと、ここにスギが植林される前は、広葉樹の自然林であったわけですが、伐採作業をした人たちは、後の植林から下刈作業のことを考えてこの木を残し、緑陰のある休憩場所として利用してきました。でなければ、スダジイを伐ってスギを植えれば30本以上は植えることができたこの空間を無駄にするはずがないからです。このように、山村の人々は自然を活かし、上手く付き合いながら生活をしてきました。そして、スギが大きくなった現在の姿です(板谷A)。スダジイが埋もれていることで、スギの生長度合いがお分かりいただけると思います。

 そこから2〜3q南に行くと、三岩(みついわ)と呼ぶ地区に国が林木遺伝資源保存林として管理しているスギの巨木林があります(三岩@)。明日のエクスカーションで飫肥街道コースの方はご覧いただくことにしていますが、このスギは明治初期に直挿し造林という、山に直接スギの穂を挿し付ける方法で仕立てられた人工林です。この森は、スギの巨木の下層に広葉樹が生い茂って複層林を形成しています(三岩A)。宮崎県が目指す将来の人工林は、このような姿です。
 ここからさらに南に行くと、日南市に入ります。この光景をご記憶の方がいらっしゃることと思います(飫肥城@)。日南市の飫肥は旧伊東藩の城下町ですが、飫肥城本丸跡のスギ巨木林で、ちょうど昨年の今頃のこと、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の主人公わかばが良く散策した場所です。スギの巨木を縫って歩きますと、心が洗われるような気にさせてくれます(飫肥城A)。ここも明日のコースに入っていますので、周囲の斜面にあるクスノキ、イスノキなどの巨木と併せてお楽しみください。

 さて、このように人工林の多くはスギによって占められていることからも、当県の巨樹にはスギが多いように思われがちですが、分布図を見るとスギの巨樹は県北の山間部に偏っていて、意外に少ないことが分かります(スギ分布図)。このことは、城下町周辺では古くからいかに木材が利用されてきたかを示しています。では、宮崎県は照葉樹林の国でもありますので、照葉樹の巨樹分布を見ますと、その代表格のクスノキは県南部から県北の海岸部に分布し(クスノキ分布図)、全国でも関東の南部以西にしか分布しない、暖帯樹としての特質を示しています。当県で特徴的なのは、これらの全部が神社にあることでしょう。これにクスノキ科のタブノキとカゴノキを重ねてみますと(クスノキ科分布図)、県内全域に分布していて、クスノキと分布域が異なっていることがよく分かります。
 また、県内にはブナ科の樹種も多く見られます(ブナ科分布図)。その代表のブナは、標高の高い九州中央山地を中心に限られた分布域を示していますが、ブナ科の照葉樹は、県内全域に分布が見られます。中には、四国・九州の5県にしか分布していないハナガガシの巨樹集団が3カ所見つかっています。
 そしてこれらの巨樹たちは、古くから土地の産土神、一族の氏神、あるいは水神様の樹として崇められて来ました。ところが、近年人との関わりが原因の痛ましい状況が見られます。

巨樹の嘆き 東郷町の福瀬神社にブナ科の稀少種ハナガガシがあります(福瀬@)。種として日本一、すなわち世界一といわれるこの巨樹は、伐採するか、保存するかで二度にわたって揺れ動きました。発端は、大風で倒れでもすれば、社叢に隣接する民家に届きそうで怖い、という苦情が寄せられたことに始まります。最初は、先ほど御講演いただきました平岡先生が、県林業技術センターでの講演で紹介されたのがきっかけで、ワイヤロープを掛けて守られました。ワイヤロープは、3方向に張られましたが、その1本は背後の樹林に隠れていた2番目に大きいハナガガシの胴体に巻き付けられていたのです(福瀬bQ)。最近やっと取り外されましたが、ローブが幹に食い込み(福瀬bQ幹)、あと数年で簡単に幹折れするような状態になるところでした。
 では、ナンバーワンの方はというと、そのロープが幹に食い込むことによって、最近大枝が地響きを立てて落下しました。枝が落ちた跡に作業員が登っていますが(福瀬bQ落枝)、この写真で大きさがお分かりと思います。枝が落ちたことによって伐採論が再燃したため、町役場は地元との協議を進め、全国に募金を呼びかけました。県から補助金が出たこともあって、今度はロープを掛け直して、再び保存されることになったのですが、蒸散作用を抑えるために枝という枝が切り詰められました(福瀬A)。今春の新芽が今後の生存を証明してくれるよう祈る想いです。

 高鍋町には国指定天然記念物のクスノキ、「高鍋のクス」があります(高鍋@)。これは、県巨樹100選の選定作業が進められていた当時の写真で、選定委員のお一人であった平岡先生が絵を描いておられる、その横で撮影したものです。この巨樹は、100選に認定されて間もなく、大がかりな外科治療が行われました。その直後に見に行きましたが、そのブロンズ像のような姿に唖然として、写真も撮らずに帰った記憶があります。例えば、これは徳島県の「鳥屋の大クス」ですが(鳥屋)、このような姿をしていたということです。少なくとも、こういう形で人の手が加えられた巨樹は、被写体にはなり得ない、御免被りたいという気持ちです。
 同じ徳島県に「春日神社のクスノキ」があります(春日神社)。空洞化が進んで、ほとんど皮だけで生きているような巨樹ですが、貫禄があると言うか、感動すら覚えます。また、これは当県えびの市の「荒神堂のタブ」ですが(荒神堂)、西南戦争の折に火災に見舞われたそうで、幹の半分が失われ、それでも元気に生きています。こういう巨樹を見るにつけ、やはり樹は根っ子が元気なことが大事だと気付かされるのです。
 もう一度「高鍋のクス」に戻りましょう(高鍋A)。この樹は今、空洞の入口を塞いだモルタルが割れ、治療前は元気そうに見えた樹皮さえ腐朽が進行しています。樹木医の皆さんの名誉のために申し上げますが、宮崎県に最初の樹木医が誕生したのは平成4年後半でした。この工事が行われたのは平成4年前半でしたから、樹木医の手によるものではなかったと言うことです。ただ、一説には町が1,500万円投下したとされるこの治療、皆さんはどうお考えでしょうか。

 次に、西都市に長谷観音という観音堂があります。御堂の裏手に回ると(遙拝所)、賽銭箱を備えた立派な遙拝所が建てられています。何のための遙拝所かと言いますと、その向こうに見えるイスノキを拝むためにわざわざつくられたものなのです。このイスノキは、かつて県巨樹100選にノミネートされたこともあります。やはり平岡先生と一緒に確認に行ったのですが、当時このイスノキには、樹皮が剥がされ、そこに観音像が彫られていました。そのあまりに可哀想な姿に、巨樹100選から外れることになりましたが、十数年経った今、その部分が腐朽し、観音像の見る影もなくなっています(長谷@)。イスノキの材は、比重が1.0前後あります。水に浮かない、といわれるほど緻密で堅いイスノキも、人の手で簡単に死に至らせることができるのです。腐朽した割れ目から、向こうの空が見えるのがお分かりでしょうか。樹の反対側に回って見ますと、当時からこの樹には空洞があって、既に幹の3分の1ほどは失われていました(長谷A)。表が腐朽したことで、幹半分でしか生きていません。大風の当たりようでは倒れそうな状態です。

 次は、クスノキでも最大級の「清武の大クス」です(清武@)。写真はこのフォーラムのチラシなどに採用していますが、実はこの写真はクスノキがまだ元気な頃のものです。この樹は、子供たちがスニーカーのまま幹に登り、滑り台として遊んだことから、樹皮が剥がれ、今では腐朽が進んでいます(清武A)。おそらく、昔も子供たちはこの樹に登って遊んだことでしょう。今と違うのは、以前は素足で遊んだだろうということです。私も、子供たちがじかに樹に触れる機会をもって欲しいと願っていますが、最近は遊び方を知らないばかりか、遊び方を教える大人もいなくなったように感じます。
 そして最近のことですが、この巨樹の周囲には、幹に添って木道が設置されました(木道@)。本来木道は、細根を踏まないように、枝先より外側に設けるものですが、これでは何のための木道か分かりません。このクスノキには、人が数人は楽にくつろげるほどの空洞があります。木道の構造から考えて、空洞の中を見せるか、あるいは空洞に立ち入らせるために造られたものと考えて良さそうです(木道A)。お陰で、このクスノキ全体が被写体にならなくなってしまいました。

 都城市と高原町が境を接する位置に霧島山系の火口湖、御池があります(御池)。写真では、背後にそびえるのが高千穂峰で、池の周辺は野鳥の森に指定され親しまれています。この森には、国有林が「森の巨人たち」に選定した幹周402センチメートルのイチイガシもあります(森の巨人)。その近くに九州自然歩道が通っていて(歩道)、沿道に幹周が545センチメートルで、この森最大のケヤキがあります(欅@)。この樹を向こう側から見てみます(欅A)。何かおかしいと思いませんか。幹に板が打ち付けてあり、隠そうとしているようです。もっと近づいて見た写真でミツバチがいるのがお分かりでしょうか(欅B)。実は、この樹には洞があって、ミツバチが営巣しているのですが、蜂蜜を盗るために、入口をチェンソーで切り広げた跡なのです。
 このことは、新聞やテレビでも採り上げられましたが(新聞)、記事にあるように「くりぬかれた部分を隠すように」板が打ち付けてあったのではありません。その後もミツバチが出入りできるようにしてあります。つまり、いずれ蜂蜜が貯まった頃に、再び盗りに来ようとした犯人の意図が見えるのです。

 どうして人はここまで樹木、自然との付き合いが下手になったのでしょう。そこには、現代人が置き去りにした心があるように思えます。

山村の疲弊 巨樹の危機が地球環境の悪化に影響されていることは言うまでもないことですが、しかしこれも人がそう仕向けたからに他なりません。むしろ、巨樹と人との関わり方の変化に大きく影響されていると言えます。人は、自然から恵みを受け、また時に荒れ狂う自然におののき、それへの感謝や畏れを引っくるめて、自然神の権化として巨樹を崇めてきました。それを支えてきたのは、山村の心、すなわち日本の心と思っています。
 今、その山村が疲弊を極め、中には消え去ろうとしている集落さえあるのです。このことは、自然を崇めてきた心が失われることであり、自然との関わりが疎遠になることでもあります。そして、山村に疲弊をもたらす要因のひとつに林業の低迷があります。

 わが国における森林の伐採・造林面積の変遷を見ますと、1955年以前は木炭生産が盛んでしたから、伐採後の森は自然の力、いわゆる天然更新によって再生していました(伐採・造林推移図)。例えば、今や全国に知られるようになった綾の照葉樹林も、昭和30年頃に撮影された写真(綾:昔)で分かるように、かつてほとんど切り尽くされた時期がありました。そして、次の写真が天然更新を遂げた現在の綾照葉樹林の姿です(綾:今)
 しかし、自然と対峙しながら生きてきた山村の生活は、その後の高度経済成長と燃料革命によって一変します。この燃料革命で、私たちは現在の地球温暖化と花粉症被害という、悩ましい道を選択したことになります。生活の糧を失った山村は、膨れあがる都会の住宅建築に望みをつなぎ、木炭生産から拡大造林に転換を余儀なくされました。ところが今、 わが国の木材自給率は18パーセント代に落ち込み、住宅の木造率は40パーセント代に甘んじています。国民が自国の木材を使わないで、外国の、それも自然林から伐り出された木材を使用するという現実があります。そのため、山元の立木価格、つまり山村の手取りは昭和30年頃と同じにまで落ち込んでいるのです(価格図)。 これでは山村が山村の心を繋いで行けるはずもありません。
 これに追い打ちをかけているのがスギ花粉症問題です。花粉症をもたらす植物がスギだけでないことは知られています(飛散図)。東北・北海道では、シラカンバの花粉症に悩まされる人が多いように、年間を通じて様々な植物の花粉が飛散しているのです。山村の心は、どこへ持って行けばよいのでしょうか。

山村の想い、そして将来への期待 西都市尾八重に「尾八重一本杉」があります(一本杉)。私が最も好きな巨樹のひとつです。尾八重には、かつて児童数が100人を超える学校がありましたが、今は全人口が30人ほどにまで減っています。村興しの代表者は「一本杉の存在すら忘れていた。今からこの巨樹を核にして村興しに取り組みたい。」と想いを語ります。谷を挟んで対岸には「椿の里公園」がありますが、ここには淡いピンクの花を咲かせるウラクツバキをはじめ、コウヤマキ、タブノキ、ムクロジなどの巨木もあって、居ながらにして巨木を堪能できます(有楽椿@)。ウラクツバキは今、満開の時期を迎えています。尾八重の想いが、この椿のように花開くことを願っています(有楽椿A)

 私の故郷、熊本県阿蘇市の一の宮町に「手野の杉」という国指定の天然記念物がありましたが、平成3年の台風で無惨にも幹が折られてしまいました。地元では、暫くの間そのむくろに発泡樹脂を吹き付けて護っていましたが、先年帰ってみると、四阿風の立派な小屋を2棟も建て、根っ子と幹に分けて保存していました。地元には、巨樹を失ってからでさえ、このような想いがあります。そのスギが立っていた手野神社の境内と周囲は、以前はムササビが飛び交うようにこんもりとした森でしたから、スギも大風をまともに受けるようなことはなかったでしょうけれど、今は隣接してキャンプ場や駐車場ができ、難なく風が通り抜ける環境になっています。倒れる前に気付いていればと思わずにいられません。(この項の画像は、「ふるさとの紀・季・樹」のページをご覧ください。)

 そして、私たちには将来に想いを繋いでくれる子供たちがいます。今日は、野尻町立栗須小学校の子供たちが来てくれていますので、子供たちの想いを聞いてください。

(子どもたちの想い:抜粋) 今日は私たちの小学校の校庭にある、大きなセンダンの樹についてお話したいと思います。センダンの樹はおよそ樹齢130年で、その大きさは友達5人でやっと手がまわるほどです。幹周りは約5メートル、高さは約17メートルです。はじめてこの樹の前に立ったとき、見上げても、見上げてもてっぺんが見えないので感動したのを覚えています。毎日、大きな樹の下で鬼ごっこをしたり、話をしたりして休み時間をすごしています。また、センダンの樹のことを理科で勉強したり、図工で絵を描いたりしています。
 この大きなセンダンも、初めは小さなたった一つの実でした。それが永い間にこんなに大きくなりました。このように、誰にでもできるささやかなことを夢や目標に向かって続けて実践していけば、大きな成果が生まれるということを、私たちは「せんだんの実運動」として取り組んでいます。たとえば、一人ひとりが責任を持ってスリッパを並べたり、草むしりをしたり、学級文庫の本をきれいに並べたりしています。  4年前、センダンの木が少し元気をなくしたとき樹木医さんが治療をしてくださいました。昨年の台風でたくさんの小枝が落ちましたが、今は元気に私たちを見守ってくれています。私たちはこれからもセンダンの樹を大切にしたいと思います(栗須小のセンダン)

未来に託す森 私たちは、子供たちに期待をかけるだけではいけません。宮崎には、先ほどお話しした「御池野鳥の森」、その北に位置する「ひなもり台県民ふれあいの森」と周辺の国有林、「綾の照葉樹林」、「アバンダント白鳥郷土の森」など、自然のままの巨木の森が数多くあります。この自然を、健全な姿で未来に継承すること、それが私たちの責任だと思っています。有り難うございました。

※「ひなもり台県民ふれあいの森」と周辺の国有林、「綾の照葉樹林」、「アバンダント白鳥郷土の森」は、それぞれのページをご覧ください。
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